それは蒼い絹糸のようだった。
 目の前でぱらりと弾け、重力に従い流れ落ちたそれを、千尋は見つめた。
 まるで流水のように美しい髪は湿った風に絡まることすら知らないようだった。

 森林の木漏れ日は髪に反射し、
 青臭い香りのある空気に混じりあって朧げな光を帯びた。
 そのさまは幻想的で、どこか神がかっていて、少し眠たげで
 まるで夢の入り口に足を踏み入れたようだと千尋は思った。
 これは夢だろうか、夢でもいいのかもしれない、
 その髪に触れてみたかった。

「きれいな髪」

 近づきながらそう呟くと、髪の持ち主は、はっとした様子で振り向いた。

「姫」

 腰まで流れ落ちた髪の束を片手でぎゅっと掴み、千尋から隠そうとする道臣の顔は少し青ざめている。
 お見苦しい姿を、と申し訳なさそうにこうべを垂れる彼の前まで歩み寄り、千尋はしゃがみ込んだ。
 道臣のすぐそばには、深い紺碧色のさほど大きくない湖がある。とても不思議な色をした湖は彼の気に入っているようで、千尋が探しに来ると、彼は必ずといっていいほど森のこの場所に座して楽器を奏でたりしていた。
 だから今日も来たのだ。
 「なぜわざわざ自分のもとに来るのか」と不安そうにしていた道臣に、千尋は楽器の音色を聴きに訪れているのだと説明し、彼は今もそれを信じ続けているが、その理由が次第に変化していったことを彼は知らないだろう。
 知らないままでもよかった。
 自分だけが知っていればよかった。

「髪を下ろしたところを一度見てみたかったのです」

 千尋は目に焼きつけたかったのだ、彼の美しい髪が木の葉の合間から漏れる陽光に儚く輝いているところを。

「私の髪など……」

 そして自分だけのものにしたかったのだ、絹糸を指に絡ませ、身体の一部にしてしまうようにきつくきつく握りしめて。

「あなたの髪はその湖の中で染めたかのように美しいわ。見ないうちに、また伸びましたね。
 もしよければその髪ひと房を私にくれないかしら」
「私の髪を?」

 道臣は困惑したようだが、断ることなどできはしないだろう。このようなものでよければ……と消え入りそうな声で承諾し、懐から小刀を取り出した。
 千尋は微笑んだ。微笑み、道臣が鞘から刀身を抜こうとする手を制した。少し驚いた様子で顔を上げ、道臣は千尋を見た。その暗色の瞳は、彼の背後にある湖とやはり同じ色をしていた。

「今は、まだ。その輝く髪を私に見せていてください」

 そう言って、千尋は男の額と前髪に指先でそっと触れた。男はつらそうに目を閉じた。彼は何をそんなに罪悪と感じるのだろう。いつもそうだ、どこかで千尋を拒みながら千尋の行動を受け入れている。矛盾している。千尋は男の態度を可笑しく感じて口元に笑みを浮かべた。千尋が手を退けると再び男が瞼を上げた。深い色をした両目が千尋に向けられ、その球の中に女の姿が映る。金色にきらめく髪を持つ女が映る。

「私の髪などより、あなたの黄金色の髪こそ美しい。御髪が美しく輝くことすら、きっと天命でありましょう」
「天命? 私の髪にすら定めがあるというのですか。そんなものは要りません」

 素早い動作で彼の頬に手をあてがう。道臣は一瞬目を細めたが抵抗はせず、瞼を閉じたりもしなかった。依然、彼の瞳には千尋が映り続けていた。その距離は、君主と臣下というには少し近すぎる気がした。

 沈黙の中で風が吹く。
 緑香る心地よい風が。
 地面から湿った匂いが立ち上るのは昨日、雨が降ったからだろう。
 短い草の上に膝をついているので、大地にたくわえられた水分が衣に染み込んできている。

 揺れる木の葉のさざめきと鳥のさえずりと静かな男の呼吸が聞こえている。

 木漏れ日に揺れる光の波動と髪の輝きが千尋の目にまぶしい。

 男の顔が近づく。千尋も承知の上である。
 男は無表情であり女は微笑んでいる。

 くちづけの間に、
 千尋は男の背中に手を回し、そこに水のように流れる髪を五本の指に絡ませた。
 それは本当に絹糸のようで指先に心地よく、
 千尋は無闇に引っ張らぬよう注意深く髪を強く強く握りしめ、眉を寄せた。



 自分もまた何かに罪悪を感じているかもしれなかった。



 男の顔が離れると同時に、千尋は手から力を抜いた。
 遠ざかる一瞬で千尋は微笑みを顔に戻した。
 男の深遠な瞳が千尋を見つめる。そこに映っている自分自身を千尋は見たかったが
 その虹彩があまりに暗くて確認することはできなかった。

 道臣は何も言わずに小刀を抜き、己の髪をひと房切り落とした。
 そして、それを千尋に捧げた。
 千尋は彼に見えないところまでそれを持ってきて、微笑みながら、先ほどのように強く握りしめた。

 なぜか泣きたくなった。

 手に入れたというのに、手に入れていない気がした。
 永遠に手に入れることはできない気がした。